むかし子どもだった大人たちへ。
いまのこどもたちに伝えてほしい、宇宙を"好き"になるものがたり
「はまぎん こども宇宙科学館」的川泰宣館長のオンライン宇宙教室がスタート!第3回「軌道への跳躍」その3「全段制御のミューとX線天文学の世界デビュー」
ゼロから未来につなぐ。「的川館長のオンライン宇宙教室」
日本の「宇宙教育の父」であり、JAXA名誉教授でもある「はまぎん こども宇宙科学館」の的川泰宣館長が、思い出話を交えながら日本の宇宙開発について語ります。
不定期にライブ配信するこの番組は、完全大人向けで、日本の宇宙開発の黎明期から現在までを、寄り道をしながらわかりやすく、臨場感たっぷりにお話しします。
宇宙の楽しさやおもしろさを感じながら日本の宇宙開発について学んでみませんか?
第3回「軌道への跳躍」その3「全段制御のミューとX線天文学の世界デビュー」
第3回「軌道への跳躍」その3「全段制御のミューとX線天文学の世界デビュー」では、第3世代のミュー M-3Sロケットと打ち上げた科学衛星、日本のX線天文学の世界的な飛躍についてのお話です。現場でともに活動した的川館長が臨場感たっぷりに解説します。
M-3C-4と「はくちょう」(前回の話の付け加え)
「はくちょう」は日本初のX線天文衛星です。前回お話ししたコルサ(CORSA)衛星の雪辱を果たすべく、1979年2月21日、内之浦からM-3Cロケット4号機によって打ち上げられました。衛星に搭載したコイルに電流を流し、地球磁場との相互作用を使って衛星のスピン軸を任意の方向に向けることにより、多数のX線天体の観測を行いました。
「はくちょう」を運用するのは、何しろ初めてのことばかりだったために天手古舞でした。計算機室では、毎日夜遅くまで翌日の運用について喧々諤々の議論。「はくちょう」の姿勢を制御するときは徹夜。X線の新しい星が出現すると、データがどんどん内之浦から送られてきて解析が間に合わない。計算機が容量オーバーになりかかり、ソフトウェアを改良する...。衛星は90分ほどで地球を回って頭の上に約10分だけ戻ってきます。衛星から情報を受信し、また衛星に電波で指令を与えるこの10分間は、猫の手も借りたくなるほど、とにかく大忙しでした。この衛星で獅子奮迅の活躍をした牧島一夫先生は「まさに新米の母親さながらの毎日でした」と述べています。
「はくちょう」に乗った小田先生自慢のX線観測機器「すだれコリメーター」は、広い天空を見張っていて、どこかに突然X線星が出現すると、すぐその場所を精密に捉えます。これを小田先生は「天空上のもぐらたたき」と名づけました。「もぐらたたき」は大変な威力を発揮し、X線を出す新しい星がいくつも発見されました。国内外の光学望遠鏡とも多くの同時観測をしました。中性子星の半径がみな10km程度であることをつきとめ、銀河中心までの距離の誤差を指摘し、パルサーの観測から中性子星の自転のふらつきを明らかにしたのも「はくちょう」の功績です。
この楽しくも必死の日々に、日本のX線天文学は世界の最前線に躍り出ました。
曽野綾子さん
「はくちょう」の打ち上げには、小田先生の友人である作家の曽野綾子さんが、特別に準実験班員として参加していました。実験期間中毎日、鹿児島の鹿屋から実験場に来て衛星班と行動を共にし、打ち上げ前の準備作業を熱心に見学していました。
3年前のCORSAの折は、失意の実験班に声もかけられず、そっと実験場を後にしたと聞いています。その後、衛星打ち上げの際には、成功を祈って"おしるこ"や"即席ラーメン"を差し入れてくださるようになりました。差し入れの話を聞いたご主人の三浦朱門さんは、「東大のロケットは"おしるこ"を燃料にしているのですか?」とジョークを飛ばしていました。
全段制御ロケットの登場、第3世代のミュー M-3S
ミューシリーズの第3世代はM-3Sでした。第1段にもTVC(推力方向制御装置)が装備され、軌道投入精度の向上と打ち上げ条件の緩和が実現しました。
- 打上げ日
- ミッション
- 1980年2月17日
- 試験衛星たんせい4号
- 1981年2月21日
- 太陽観測衛星ひのとり
- 1983年2月20日
- X線天文衛星てんま
- 1984年2月14日
- 中層大気観測衛星おおぞら
※残念ながら、的川館長の誕生日(2月23日)の打ち上げは実現していません...
M-3S-1と「たんせい4」
1980年2月17日、M-3Sロケット1号機によって打ち上げられた試験衛星は「たんせい4号」と命名されました。この衛星は、M-3Sロケットの打ち上げ性能の確認と、それ以降このロケットで打ち上げられる予定の科学衛星に必要な数々の工学技術や搭載機器の試験が目的でした。
第1周でヨーヨーデスピナを起動しスピン数を毎秒2.1回から毎分18回に落とし、太陽電池パドルを展開。その後、磁気姿勢制御、ホイール姿勢制御、レーザ反射器による追尾、レーダトランスポンダによる追尾、MPDアークジェットによるスピンアップおよび磁気バブルデータレコーダの記録・再生などの各種工学実験や、太陽ブラッグX線分光器による太陽フレアの観測などを行いました。また、スターマッパーやSバンドテレメータの試験、新形式の太陽電池の性能評価、熱制御用材料の性能評価、電源系管理用AH積算計の試験を行い、良好な結果を得ました。
「たんせい4号」は、数多くの新しい実験を精力的に実行し、期待通りの成果を挙げ、その後の「ひのとり」「てんま」「おおぞら」などへの明るい見通しを立てました。宇宙研の衛星を大きく飛躍させるきっかけとなる試験衛星でした。
M-3S-2と「ひのとり」
1981年2月21日、M-3Sロケット2号機によって打ち上げられたASTRO-A衛星は「ひのとり(火の鳥)」と命名されました。「ひのとり」は、日本初の太陽観測衛星で、硬X線像を中心とした太陽フレアの多角的観測を目的として、1980~81年をピークとする第21太陽活動期を狙って打ち上げられたものです。小さな衛星に複雑な可動部を搭載するのは技術的・予算的なハードルが高かったため、衛星自体の回転運動をスキャンして利用するという、独創的なアイデアが採用されています。
「ひのとり」は、定常観測体制に入った初日に大規模な太陽フレアを観測し、その後1ヶ月の間に大小さまざまな41のフレアの観測に成功しました。これにより、フレア発生時に3000万~5000万度の超高温の熱的プラズマが生成されていることを定量的に証明し、彩層からコロナに向かってガスが吹き上がる様子(プラズマの運動)を捉えることにも成功しました。これらの観測データは国際的な太陽活動極大期観測プロジェクトにも提供され、太陽活動の理解に大きく貢献しました。
「ひのとり」命名にまつわるエピソード
宇宙研時代の衛星は、計画段階から打ち上げまでの間は英文名が用いられています。打ち上げの数日前に、宇宙研、各大学、メーカー等の実験関係者の間で、軌道に乗ったらどういう愛称で呼ぶか投票を実施します。その集計結果に基づいて、実験主任を含む長老の先生方が良識を以て愛称を決定し、打ち上げ成功後に和文の愛称を発表します。
当時、手塚治虫の長編コミック「ひのとり」がベストセラー街道をひた走っていました。何しろ今回の衛星は太陽の観測衛星。宇宙研の中にも手塚先生のファンが多く(的川館長もその一人)、投票を集計したところなんと得票率は80%。「ちょっと派手」という声もありましたが、ついに数の力が勝って「ひのとり」と名づけられました。後日、手塚治虫プロダクションにご挨拶に行くと、手塚治虫先生はにっこり笑って「私の漫画から自由に使っていいですよ。衛星の名前ならうれしいです。鉄腕アトムなんていかがですか?」と快諾してくださいました。
M-3S-3と「てんま」
わが国2番目のX線天文衛星ASTRO-Bは、1983年2月20日、M-3Sロケット3号機によって打ち上げられ、「てんま(天馬)」と命名されました。
「はくちょう」の成果を発展させるため観測装置の性能向上を図り、銀河系の外まで観測範囲を延ばしました。ガスジェットを使わずホイール(はずみ車)の回し方を調節することによって姿勢の安定を保ち、約10分間に1回のゆっくりした回転をします。間もなくして、衛星のニューテーション(軸のふらつき)が増加するという予想もしなかった不具合が発生しました。これはホイールの異常によるもので、ホイールを止め、「はくちょう」と同じフリースピン方式に切り替えました。ホイールが使えないことで、星姿勢計による位置決定の多少の困難や観測精度に若干の影響がありましたが、主観測機器には影響はなく、運用が続けられました。
「てんま」命名にまつわるエピソード
的川館長は小田先生と今回の衛星主任の田中靖郎先生に内之浦のバー「ロケット」に呼び出されると、次の衛星の愛称のヒントとして、星座の名前を片っ端から挙げてほしいと頼まれました。「おおぐま」「こぐま」「カシオペア」...「こと(琴)」と言ったところで、的川館長は「この星座の主星はヴェガ、例の織姫星ですね。」と付け加えました。こと座にはX線の星もあることから「うん、いいね。」「おりひめという名前は悪くないんじゃない?」という話になり、翌日、命名の責任者である野村民也先生と協議の末に決定。一応文部省に報告の電話が野村先生から入れられました。
しかしながら電話に出た文部省のお役人は、「えっ、おりひめなんて何だか女工哀史(当時流行っていた書籍)を思い出して暗い気分になりますなあ。」と言いました。野村先生も「それもそうですなあ。」と賛成してしまったので急転直下、白紙に戻ってしまいました。その晩、前夜と同じ光景がバー「ロケット」で繰り広げられました。「おひつじ」「さんかく」「かに」「オリオン」......。今度は「ペガサス」で止まり、「ペガサスはいわゆる天馬ですね。」と的川館長が話すと、小田先生と田中先生の合議で「てんま」という名前が誕生しました。
ところがその直後にもひと騒動ありました。新聞発表した後で野村先生が広辞苑で調べてみたら「"てんま"なんて言葉がない」と言い出したのです。あの羽の生えた馬は「てんば」と読むのが本当らしいと。すると、その場の雰囲気をなだめるように、「まあ、いいじゃないか。神州天馬侠(当時流行っていた小説)ってのがあったから。」と小田先生が言っていましたが、実は小田先生は三浦朱門先生に訊ねて「どちらでもいい」というお墨付きをもらっていたそうです。また外国向けにはTenmaかTemmaかという衛星の田中先生対ロケットの秋葉先生の論争が起こり、こちらの方はTenmaに決まりました。
M-3S-4と「おおぞら」
1984年2月14日、EXOS-C衛星がM-3Sロケット4号機によって打ち上げられ、「おおぞら」と命名されました。
大気については、それまで地表に近い高度10kmから100km程度までの中層大気の観測と研究が取り残されていました。1970年代を経て、中・上層大気の観測が地上からのリモートセンシングで行われるようになり、中層大気中の大気組成や温度の測定が可能になってきました。このようなさまざまな手段による観測に室内実験やデータ解析などを総合して、国際的に中層大気の研究を進めようという計画が各国の研究者間で検討され、「中層大気国際協同観測計画(MAP)」が1982年〜1985年に実施されることになりました。「おおぞら」は、そのMAP計画への積極的な協力の一環として、全地球的な中層大気の観測を行うために計画されたものです。
「おおぞら」は、打ち上げの際に第3段モータとの分離5秒後にモータとの接触が発生し、残留ガスによる汚染(コンタミ)を受けました。このため、衛星のバッテリー容量が5分の1へと大幅に低下しました。この容量低下を受けて、バッテリーが過放電に至らないよう、各種観測装置のオン・オフを注意深く行う運用を実施しました。関係者の粘り強い努力によって4年にわたり多くの貴重な観測データを取得し、中層大気の観測で貴重な成果をもたらしました。
X線天文学の夜明けと小田稔
日本は、X線によるブラックホール研究で世界の最先端を行く。そのパイオニアが宇宙物理学者の小田先生でした。 小田先生は1923年(大正12年)、北海道生まれ。1944年大阪大学理学部を卒業、同級生にはソニー創業者の盛田昭夫さんがいました。その後、海軍技術研究所で朝永振一郎の知遇を得て物理学の研究に入り、大阪市立大学で宇宙線の研究に携わりました。1953年にアメリカのマサチューセッツ工科大学に移り、その後、当時始まったばかりのX線天文学の研究に加わり、「すだれコリメーター」と呼ばれる観測装置を発明。「すだれコリメーター」よってX線を出す天体の精密な位置を観測することが可能になり、アメリカとの共同で、白鳥座にあるブラックホールの場所を特定しました。その後、東京大学宇宙航空研究所、現在の文部科学省宇宙科学研究所で、1979年に日本初のX線天文衛星「はくちょう」の打ち上げに成功したのをはじめ、1985年には、ハレーすい星探査機「さきがけ」と「すいせい」の打ち上げを実現させるなど、日本の宇宙科学が世界の第一線に飛躍する基礎を築きました。
「すだれコリメーター」を発明
X線は天体観測に欠かせませんが、X線が飛んでくる正確な方向の特定は技術的に難しいものでした。飛んでくるX線を2枚重ねたすだれを通して観察すると、飛んでくる角度によって通ったり通らなかったりする原理を利用して、すだれコリメーターの開発にこぎつけました。
この装置が考案されるきっかけとなったのは、アメリカのケンブリッジにあるペットショップでした。小田先生がそのペットショップの店頭でハツカネズミが回し車を回している様子を目にした際に、手前と奥のすき間が重なり合って縞模様が浮かび上がる現象を見かけたそうです。
アルベルト・アインシュタイン
ある日、研究室でアインシュタインのことが話題になりました。「アインシュタインというのは不思議な人だ。」「たいていの物理の理論というのは、前に考えたことがある人がいて、それをヒントにして新しいことを思いつくのがほとんどだが、アインシュタインが思いついたことというのは、その前に考えた人がいない。」「桁外れな人だ。」そんな話をしていると、小田先生が「私はアインシュタインの講演を聞いたことがあるんだよ。」と言いました。
アインシュタインが来日したのが1922年、小田先生がお生まれになったのは1923年。当時北海道在住の小田先生のご両親は、札幌公会堂にアインシュタインの講演を聴きに行ったそう。お母さまのお腹に赤ちゃんがいて、翌年に小田先生がお生まれになったとのことでした。小田先生は「お腹の中で聞いていたんだ。アインシュタインの声が聞こえた。」と、そういう冗談もよく言う人でした。
稔少年の「ケンキュウ」
少年時代、小田先生はハナクソがどうして鼻の穴の中で大きくなるのか不思議に思い、小さな箱でハナクソを育てたけれども一向に大きくならないのでおかしいなと思ったそう。ある日その箱を開けたお母さまがびっくり仰天したそうです。小田先生は「それが私のおそらく最初のケンキュウだった。」と話していました。
内之浦の定宿「福之家」での会話
小田先生「ぼくは若いころ、これでも"星の王子さま"って呼ばれていてね。」
的川館長「へえ、それが今は"星のおじいさま"で?」
小田先生「こいつめ。」
小田先生はとても絵が上手な方で、話しながら星の王子さまがおじいさんになった姿も絵に描いてくれました。物理学者と思えないほど温厚で、ユーモアに溢れる方でした。
次回:第4回 日本の宇宙科学を世界へ(1)ハレー彗星という天体
次回の「的川館長のオンライン宇宙教室」は7月1日に開催。
「第4回 日本の宇宙科学を世界へ(1)ハレー彗星という天体」に、どうぞご期待ください。