むかし子どもだった大人たちへ。
いまのこどもたちに伝えてほしい、宇宙を"好き"になるものがたり
「はまぎん こども宇宙科学館」的川泰宣館長のオンライン宇宙教室がスタート!第2回その1「ペンシルからベビーそしてカッパ -千葉から道川へ-」
ゼロから未来につなぐ。「的川館長のオンライン宇宙教室」
日本の「宇宙教育の父」であり、JAXA名誉教授でもある「はまぎん こども宇宙科学館」の的川泰宣館長が、思い出話を交えながら日本の宇宙開発について語ります。
不定期に金曜日の夜にライブ配信するこの番組は、完全大人向けで、日本の宇宙開発の黎明期から現在までを、寄り道をしながらわかりやすく、臨場感たっぷりにお話しします。
宇宙の楽しさやおもしろさを感じながら日本の宇宙開発について学んでみませんか?
第2回「日本の宇宙への飛翔」その1「ペンシルからベビー そしてカッパ -千葉から道川へー」(2026年1月27日配信)
第2回「日本の宇宙への飛翔」では、ペンシルロケットからベビーロケット、そしてカッパロケットへと続く日本の宇宙開発における"飛翔の始まり"をたどります。日本のロケット開発がいかにして歩みを進めたのか。そのドラマチックな舞台裏を、さまざまなエピソードやトリビアも交えながら解説します。
日本の宇宙開発は、東京・国分寺のペンシルロケット実験を経て、千葉、そして秋田へと舞台を広げながら大きく前進しました。千葉では「ペンシル300」や日本初の2段式ロケットの水平発射に挑戦し、秋田県の道川海岸では本格的な打ち上げ体制が整備されていきます。
続くベビーロケットでは3タイプが開発され、勇気ある回収劇も語り継がれています。そして1958年、国際地球観測年(IGY)においてカッパロケットが成果を上げ、日本は世界のロケット開発国の仲間入りを果たしました。物語はいよいよ、日本の "宇宙への飛翔"のステージへと進んでいきます。
※この文章は、的川館長のお話しをもとに、一部の情報は生成AIによる補足を行っています。
千葉のペンシル
ペンシル300―千葉での水平発射、ペンシルの進化と日本初「2段式」への挑戦―
国分寺での実験を終えた糸川英夫先生のチームは、次なる実験場を千葉に移しました。
実験場の再利用:東京大学第二工学部分館(千葉)にあった、かつての船舶工学科の水槽を改造し、全長50mのロケット水平発射用のレンジを構築しました。
ランチャー条件の多様化試験:ロケットの発射装置(ランチャー)についても試験が行われました。国分寺ではランチャーの長さを3mから50cmまで変えて試験を実施し、千葉ではロケットの先端がランチャーより前に出た「ゼロランチャー」状態でも発射を行いました。その結果、ランチャーがロケットより短い場合を含め、いずれの条件でもロケットは安定して飛行しました。
無尾翼ペンシルロケットの試験:無尾翼のペンシルロケットについても実験が行われましたが、飛行中にロケットが前後に回転する「タンブリング」と呼ばれる現象が発生し、安定した飛行は得られませんでした。
ペンシル300の誕生:ロケットをカメラで追跡しやすくするため、発煙剤(四塩化チタン)を搭載できるよう、全長を30cmに延ばした「ペンシル300」が開発されました。
決死の2段式実験:日本初の2段式ロケットの実験では、配線ミスにより2段目が先に点火し、技術者が怪我を負うという衝撃的な事故も発生しました。この経験は、導火線を長くして1段目と2段目の時間差を作るという工夫につながり、後の安全対策に大きく生かされることになります。
現在、千葉の西千葉駅前には「ロケット研究発祥の地」の記念碑が建てられています。
道川のペンシル
秋田県道川海岸―宇宙への「聖地」と"異なる専門家"がタッグを組む「ペア・システム」―
ロケットを空高く打ち上げるためには、広大な海に面した発射場が必要でした。
道川の選定:ロケットを飛ばすにあたっては、落下したロケットが人や施設に危害を及ぼさないことが重要であるため、日本では海岸から海に向けて発射する方針がとられました。しかし当時、日本の海岸の多くは米軍に接収されており、さらに航空機や船舶の航路にかからないこと、漁船の往来が少ないことなど、条件を満たす場所の選定には苦労しました。その結果、秋田県の道川海岸が実験場として選ばれ、この地はロケット関係者から「心の故郷」と呼ばれています。
失敗を経験に生かすためのルール作り:ロケットの開発は、機械・電気・航空といった各分野の専門家が集まって進めます。発射実験では故障による失敗を重ねることになりますが、その原因や状況を最も正確に理解しているのは、故障した部分を専門とする担当者です。そこで、自分の専門分野以外については口出しをしないというルールが定められ、失敗を冷静に分析し、次に生かす体制が整えられました。
「ペア・システム」の導入:糸川先生は、異なる分野の専門家2人を組ませる「ペア・システム」を採用しました。専門家の見解と、あえてその専門家とペアを組んでいる専門外の人の視点を取り入れることで、失敗の原因を客観的に分析できる体制を整えました。
ペンシル300初の斜め発射実験:ペンシル300による歴史的な第1回目の斜め発射実験は、大きな失敗に終わりました。斜めの発射台に載せられたロケットは、転げ落ちないようビニールテープで固定されていましたが、発射時の衝撃でテープが外れてしまいました。その結果、ロケットは砂場に転げ落ち、ねずみ花火のように地面をのたうち回りました。このときの様子は「ペンシルは打ち下がった」と語り継がれています。しかしその後、改良を重ねた5機のペンシル300は連続して成功を収め、ペンシルロケットの時代を締めくくりました。
ベビー
ベビーロケット―3つのタイプと勇気の回収劇―
ペンシルロケットの発射実験と並行して、「ベビーロケット」の開発も進められていました。ペンシルロケットで得られたデータをもとに、用途に応じて3つのタイプのベビーロケットが製作されました。
また、ペンシルロケットではカメラによる光学式追尾が行われていましたが、ベビーロケットからはレーダーによる追尾も導入されました。当時のレーダーは手動式であったため、追尾の練習として、ロケットの代わりにスタッフが海岸線を走り、その動きをレーダーで追尾するという工夫も行われました。
ベビーS型(スタンダード型):基本性能の確認用
ベビーT型(テレメトリー型):観測データを電波で地上へ送信(テレメーター)
ベビーR型(リカバリー型):フィルムなどの観測物をパラシュートで回収
【語り継がれるエピソード】 ベビーT型2号機が不発で落下した際、爆発の危険がある中で責任者の戸田康明氏が"ほふく前進"でロケットに近づき、自らの手で配線を切断して安全を確保したというエピソードが残されています。
カッパ
カッパロケット―「国際地球観測年(IGY)」で世界に並ぶー
1958年の国際地球観測年(IGY)に向け、日本は高度100kmを目指す「カッパロケット」の開発に挑みました。
ロケットの名前:ペンシル、ベビーと続いたロケットの名称は、その後アルファ、ベータへと発展していく予定でした。それぞれのロケットには検証目的も定められていましたが、開発の遅れなどの事情によりアルファ、ベータは実際には飛行せず、ベビーロケットの次は「カッパ」ロケットへと移行しました。日本の妖怪「河童」を連想させるこの名前を、糸川先生は大変気に入っていたそうです。
新燃料の開発:より強力な推進力を得るため、カッパロケットの開発途中で、従来のダブルベース推進薬から、自由な形状に成形できるコンポジット推進薬への転換が行われました。新推進薬の開発は当初失敗の連続でしたが、秋葉先生やメーカーの技術者たちによる根気強い実験の積み重ねによって、ついに成功に至りました。コンポジット推進薬はマカロニのような中空形状をしており、燃焼中に燃料が溶けながら燃焼室(チャンバー)を冷却する「アブレーション効果」を利用した冷却方式にも、世界で初めて成功しています。
世界への仲間入り:1958年6月、カッパ6型は高度約50kmに到達し、上層大気の観測データを取得しました。これにより日本は同年9月にIGY(国際地球観測年)に参加し、アメリカ、ソ連、イギリスと並んで、自力でロケットを打ち上げてIGYに参加した数少ない国の一つとなりました。
伝統のはじまり:カッパ6型によってIGYに参加できたことを、糸川先生をはじめとする技術者・研究者たちは大変喜び、大きな寄せ書きを作りました。その後、実験場が内之浦に移ってからも、衛星の打ち上げに成功した際には、関係者全員でサインをした大きな色紙を残すという伝統が受け継がれるようになりました。
情熱が切り拓いた、日本の宇宙開発の"はじまり"から、"飛翔"へ
数々の試練が続いたペンシル、ベビー、カッパの発射実験。糸川先生は「失敗」という言葉を使わず「学び」や「明日への糧」と捉えていました。実験データが予想と違っていても、その間違いの中に成長のヒント、成功への前進があるという信念を持っていました。
当時の開発現場はプレハブ小屋やテントが本部の代わりで、電話すらないという過酷な環境でした。しかし、糸川先生をはじめとする先駆者の方々の「失敗を恐れない情熱」が、日本の宇宙開発を推し進め、世界に認められる成果へとつながったのです。
次回配信のご案内:第2回「日本の宇宙への飛翔」その2
2026年2月27日(金)19:00 オンラインライブ配信
次回もぜひご期待ください。


