むかし子どもだった大人たちへ。
いまのこどもたちに伝えてほしい、宇宙を"好き"になるものがたり
「はまぎん こども宇宙科学館」的川泰宣館長のオンライン宇宙教室がスタート!「日本の宇宙開発のはじまり」第1回その2
ゼロから未来につなぐ。「的川館長のオンライン宇宙教室」
日本の「宇宙教育の父」であり、JAXA名誉教授でもある「はまぎん こども宇宙科学館」の的川泰宣館長が、思い出話を交えながら日本の宇宙開発について語ります。
不定期に金曜日の夜にライブ配信するこの番組は、完全大人向けで、日本の宇宙開発の黎明期から現在までを、寄り道をしながらわかりやすく、臨場感たっぷりにお話しします。
宇宙の楽しさやおもしろさを感じながら日本の宇宙開発について学んでみませんか?
第1回その2「日本の宇宙開発のはじまり」(2025年11月28日配信)
前回(「日本の宇宙開発のはじまり」第1回 その1)の続きである「日本の宇宙開発のはじまり」第1回 その2では、「日本の宇宙開発の父」そして「ロケットの父」として知られる糸川英夫先生の生涯と、戦後の日本における宇宙開発のはじまりについて解説。戦後、GHQの布告した「航空禁止令」により航空研究が禁止された中、糸川先生が音響工学や宇宙医学の研究を経て、ロケット開発へと転身するまでの経緯を、当時の社会情勢や個人のエピソードを交えて紹介します。
糸川先生と多くの人との出会いを中心に、様々なプロジェクトを巻き込みながらロケットの開発につながっていきます。そしてそれは戦後の日本に未来への希望を与え、日本の宇宙開発の原点となったペンシルロケットの水平発射につながっていくのです。
※この文章は、的川館長のお話しをもとに、一部の情報は生成AIによる補足を行っています。
「日本の宇宙開発のはじまり」ペンシルロケットの発射実験前夜
1955年4月12日、15時5分、東京・国分寺において、カラオケマイクを細くしたような程度の大きさのロケットが発射されました。この「ペンシルロケット」と名付けられたロケットの発射実験こそが、日本の宇宙開発の劇的な幕開けでした。
この出来事は、敗戦からわずか10年という短期間で、どん底の状態から未来を目指す日本の人々に輝きと希望を与えました。当時中学1年生だった的川館長はこのニュースに触れ「日本の未来への灯火が灯ったみたいだ」と子ども心に感じたそうです。ペンシルロケットの成功は、平和を守ろうという決意に満ちた当時の人々の未来を照らす、ささやかだが力強い「のろし」になったと振り返ります。
また、この時代に人々が共有していた「未来を目指す強い志」は、現代を生きる大人たちにとっての故郷といえるものでもあり、そのことを思い出してもらうためにも、日本の宇宙開発への取り組みの原点となったペンシルロケットを紹介したいと的川館長は語ります。
ペンシルロケットと糸川先生の「宇宙開発の歴史の位置」
それでは、当時世界の国々ではどのような人が宇宙開発を行っていたのでしょうか?糸川先生を理解するために、世界の宇宙開発のパイオニアを振り返ります。
世界の宇宙開発のパイオニア
ジュール・ヴェルヌ氏(フランス)
SF作家。1865年の小説『地球から月へ』が世界中の若者に影響を与え、宇宙への夢を育んだ。宇宙開発の「話の上での先駆者」。コンスタンチン・ツィオルコフスキー氏(ロシア/ソ連)
「ロケットがどういう速度になるか」を計算する「ツィオルコフスキーの公式」を導出。ロケットで宇宙へ行けることを科学的に証明した。セルゲイ・コロリョフ氏(ソ連)
スプートニクやガガーリンの飛行を成功させた、ソ連宇宙開発初期のカリスマ的リーダー。ツィオルコフスキーの影響を受けた。ヴェルナー・フォン・ブラウン氏(ドイツ/アメリカ)
ナチス・ドイツでV2ロケットを開発。戦後はアメリカに渡り、アポロ計画のサターンV型ロケット開発を主導した。銭 学森氏(中国)
アメリカのカリフォルニア工科大学で学び、JPLの設立にも関わった天才科学者。帰国後、ゼロから中国の宇宙開発を築き上げた。
世界での宇宙開発は、戦争やライバル国同士のけん制から発展していきましたが、ペンシルロケットと糸川先生からはじまる日本の宇宙開発は、大学発の平和利用のためのロケット開発でした。
糸川先生の生い立ち
糸川先生は単なる科学者・技術者にとどまらない、極めて多面的で独創的な人物でした。
少年時代と人格形成
幼少期のエピソード:試験で鉛筆を転がして回答していたが、病弱な友人に勉強を教えるために「勉強は人のためにやるものだ」と悟り、猛勉強を始めました。
国際的視野:両親の意向で幼い頃からキリスト教の教会に通い、オルガンに親しむなど、国際社会で活躍するための素養を育みました。
好奇心と探求心:エジソンの伝記に感銘を受け、レンズや磁石で遊び、関東大震災を経験したことで「人々のために何をするか」という意識が芽生えました。
リンドバーグへの対抗心:中学生の時、リンドバーグの大西洋無着陸横断飛行に「先を越された」と悔しがり、「次は俺が太平洋を飛ぶ」と決意しました。
糸川先生の青年時代、それは日本が戦争のために技術を磨く、そんな時代でした。
戦闘機の設計者として
東京帝国大学航空学科を卒業後、中島飛行機に入社。
設計者としてのデビュー作である九七式戦闘機で「天才技術者」と称されました。
翼の設計を担当した一式戦闘機「隼(はやぶさ)」は、加藤隼戦闘隊の活躍により広く知られることとなります。
多彩な趣味と尽きない好奇心
糸川先生の人物像を特徴づけるのは、専門分野以外への旺盛な好奇心と行動力です。
バレエ:63歳でバレエを始め、わずか1年後には帝国劇場で『ロミオとジュリエット』に出演しました。
チェロ:生涯の趣味であり、海外出張にも常に携行しました。その理由は「初対面の科学者でも、楽器を合奏すればすぐに仲良くなれる」というコミュニケーションツールとしての役割でした。それまでは飛行機に乗るたび、チェロのために2席座席を取っていましたが、1席しか取れなくなると、分解して箱に収まる「組み立て式チェロ」を発明しました。
一見バラバラに見える多様な活動は、実は糸川先生の中では「ハーモニーが取れている」ものでした。その独創性、好奇心、冒険心、そして「やりたいことは何としてもやる」という諦めの悪い性格が、後のペンシルロケット開発にも色濃く反映されていたのだと的川館長は話します。
晩年と信条
晩年は長野県上田市(旧・丸子町)で暮らされました。
130才まで生きると豪語されていましたが、1999年、87歳で逝去。
糸川先生はよく、自由に生きたと言われます。しかし志が大きかった分、成し遂げられなかったこともたくさんあるのではないか、糸川先生ももがきながら生きていたのではないかと感じたと的川館長は語りました。
敗戦からの転換:ロケット開発への道
敗戦による虚無感「飛行機 - 糸川 = 0」
1945年8月15日、玉音放送を聞いた糸川先生の頭に浮かんだのは、「飛行機 - 糸川 = 0」という方程式でした。航空機の研究開発がGHQにより禁止され、自らの人生そのものであった飛行機を奪われた糸川先生は、完全な空白状態に陥り、一時は自殺さえ考えたということでした。
さらに、戦時中に協力してくれた取引先からの天文学的な請求書が殺到、先生は逃げることなく研究室の機材から自宅の家財道具まで売り払い借金返済に奔走しました。
この敗戦直後の苦境は、先生がサイン色紙によく記した「人生にとって最も大切なものは逆境と良き友である」という人生哲学のもとになる経験でした。
音響工学への転身
生きるため、そして研究を続けるため、糸川先生は専門を音響工学に転換しました。
東京大学で音響工学の講座を申請し、教授に就任。
戦後の療養中、音は波であるというつながりから、医師に頼まれて脳波測定器の研究を開始し、日本初のペンレコーダー式脳波測定器を開発しました。
ヴァイオリンや笛の音響分析に関する論文で工学博士号を取得。
麻酔の深度を数値化する「麻酔深度計」を開発し、国際的にも高く評価されました。
運命の出会い「スペース・メディシン(Space Medicine)」
麻酔深度計の研究が評価され、1952年にアメリカの大学へ招聘されたことが、糸川先生の人生の大きな転機となりました。
糸川先生は滞在先のシカゴの図書館で一冊の本に目を留めます。そのタイトルは『Space Medicine(宇宙医学)』。
当時、まだスプートニク(※人類が打ち上げた初めての人工衛星)も打ち上げられていない時代に、「宇宙」と「医学」が結びついていることに糸川先生は衝撃を受けます。そして直感的に「アメリカは近い将来、人間を宇宙に送ろうとしている」と悟りました。ロケットを兵器としてしか見ていなかった自身との発想の違いに気づくとともに、日本がこの分野で決定的に遅れてしまうという強い危機感を抱きました。このことが帰国後ロケット開発に着手する直接的な動機となったのです。
ペンシルロケットの開発準備
糸川先生が先制して提唱したロケット開発は、三つの大きな流れが合流することで現実のものとなっていきました。
▼第一の流れ:産業界の協力 - 荻窪のロケット野郎たち
帰国した糸川先生は、まず産業界に協力を求めましたが多くの企業に断られました。
その中で唯一協力に名乗りを上げたのが、糸川先生の旧知の友人、中川良一氏が取締役を務めていた「富士精密工業」でした。
中心人物:航空機部長に任命された戸田康明(やすあきら)氏がプロジェクトの中心となり、若手技術者らが設計を担当しました。
燃料開発:火薬の専門家を求め、日本油脂・武豊工場の村田勉氏(戦艦大和の火薬を設計した元海軍技術将校)の協力を得ます。村田氏が提供した朝鮮戦争で使われた「ダブルベース」という無煙火薬が、ペンシルロケットの燃料となりました。
資金難と苦労:国からの研究費は限られており、富士精密工業も乏しい予算で開発を進めていました。通産省に補助金を申請した際には、若手官僚と「国費でメーカーが利益を上げるのは何事か」という点で掴み合い寸前の大喧嘩になるという一幕もあったそうです。
燃焼試験:荻窪工場での地上燃焼試験は試行錯誤の連続でした。8本の燃料を同時に燃焼させた際には、計算違いで内圧が上がりすぎてノズルが吹き飛び、隣の病院に飛び込むという危険な事故も発生しました。
詳細は、JAXA公式Webサイト内「ペンシルロケット物語」でもご紹介しています。
▼第二の流れ:学術界の結集 -AVSA(アヴサ)研究班
産業界の協力を得るのと並行して、学術界でもロケット開発の機運が高まっていました。
設立の経緯:糸川先生は東京大学生産技術研究所の所長らとの対話を通じて、巧みにロケット研究の必要性を説き、1954年2月5日に「航空電子工学と超音速空気力学の研究班(通称:AVSA研究班)」を正式に発足させました。
研究目標:当初の目標は従来の航空機に代わる「超音速・超高層を飛ぶ飛翔体」、すなわちロケット旅客機の開発でした。
段階的開発計画:研究班は具体的な開発計画として、以下の5段階のプランを策定しました。
* A計画:超音速空気力学の実験設備準備
* B計画:ロケットエンジンの研究
* C計画:遠隔操縦・誘導技術の研究
* D計画:小型飛翔体による飛行実験
* E計画:超高空用飛翔体の実験
この計画に基づき、ごく小型の「タイニー・ランス」から始め、「ベビー」、「フライング・ランス」へと段階的にロケットを大型化していくロードマップが描かれたのです。
▼第三の流れ:国際的な好機 - 国際地球観測年(IGY)
壮大なロケット旅客機構想を進める糸川先生たちに、予期せぬ追い風が吹きました。
それが国際地球観測年(IGY: International Geophysical Year)です。
IGYの目的:1957年~1958年にかけて世界中の科学者が協力して地球を総合的に観測する国際プロジェクト。その二本柱が「南極観測」と「ロケットによる高層大気観測」でした。
永田武氏の提唱:日本の代表として準備会議に出席した地球物理学者の永田武氏は、アメリカからのロケット提供の申し出に対し、「日本のロケットで観測すべきだ」という反骨精神から、国内での開発を模索していました。
新聞記事が繋いだ縁:文部省が毎日新聞に掲載した「20分で太平洋横断」という糸川先生の研究を紹介する記事に、永田氏が目を留めたことがきっかけとなり、糸川先生と永田氏の出会いが実現しました。
ペンシルロケット発射へのカウントダウンが始まった
驚くべきことに、糸川先生と永田氏は旧制東京市立第一中学(現・九段高校)のオーケストラ部に所属していた同窓生でした。この出会いを契機に宇宙理学と宇宙工学が連携。資金調達の現実的な見通しを踏まえ、壮大な「太平洋横断ロケット」構想を一時棚上げし、当面の目標を「IGYを支える観測ロケット」の開発へと転換する決断を下しました。
次回に続く、ペンシルロケット発射に向けた物語
「飛行機 - 糸川 = 0」は移項すると「飛行機=糸川」に。
飛行機と共に歩み、日本の宇宙開発へつながる物語は、まだまだ続きます。
次回は「ペンシルロケット発射」までの物語。
的川館長のオンライン宇宙教室 第1回「日本の宇宙開発のはじまり」その3にご期待ください。
