むかし子どもだった大人たちへ。
いまのこどもたちに伝えてほしい、宇宙を"好き"になるものがたり
「はまぎん こども宇宙科学館」的川泰宣館長のオンライン宇宙教室がスタート!「日本の宇宙開発のはじまり」第1回その3
ゼロから未来につなぐ。「的川館長のオンライン宇宙教室」
日本の「宇宙教育の父」であり、JAXA名誉教授でもある「はまぎん こども宇宙科学館」の的川泰宣館長が、思い出話を交えながら日本の宇宙開発について語ります。
不定期に金曜日の夜にライブ配信するこの番組は、完全大人向けで、日本の宇宙開発の黎明期から現在までを、寄り道をしながらわかりやすく、臨場感たっぷりにお話しします。
宇宙の楽しさやおもしろさを感じながら日本の宇宙開発について学んでみませんか?
第1回その3「日本の宇宙開発のはじまり」(2025年12月26日配信)
前回(「日本の宇宙開発のはじまり」第1回 その2)の続きである「日本の宇宙開発のはじまり」第1回 その3では、的川館長が「日本の宇宙開発の父」そして「ロケットの父」として知られる糸川英夫先生の生涯とともに、戦後の日本における宇宙開発のはじまりの金字塔となる「ペンシルロケット」の打ち上げにまつわるエピソードと、関連するトリビアについても寄り道しながら解説します。
全長23cm、直径1.8cmの「ペンシルロケット」は、単なる小型実験機ではありませんでした。それは、日本の宇宙開発における技術、組織、そして挑戦する精神の礎を築いた、歴史的なプロジェクトだったのです。
第二次世界大戦後、日本はGHQの「航空禁止令」により航空研究を禁じられていました。しかし、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効によってこの禁止が解かれます。こうした政治的転換を背景に、三つの大きな潮流が合流してロケット研究が推進されました。
それは、糸川先生が描いた「太平洋横断ロケット旅客機」という壮大な夢を道しるべとし、第一に、富士精密工業を中心としたメーカーの努力。第二に、ロケット基礎研究を目的とした「AVSA研究班」の結成による学術的な連携。そして第三に、予算的な裏付けを保証した「国際地球観測年(IGY)」への参加という現実的な目標でした。
糸川先生と、日本の宇宙開発チームの原型となった青空の下のコントロール・センターに集った35人の想いが結実した「ペンシルロケット」がいよいよ発射されます。
※この文章は、的川館長のお話しをもとに、一部の情報は生成AIによる補足を行っています。
前回までのあらすじ~ペンシルを準備した歴史的条件~
太平洋戦争中に戦闘機「隼」の設計に携わった糸川先生は、戦後、日本が航空機の研究を禁じられたため、東京大学で音響学の研究を行っていました。転機が訪れたのは、1953年。シカゴ大学の図書館で『Space Medicine(宇宙医学)』という本を発見した時でした。宇宙と医学が結びつく事実に衝撃を受けた糸川先生は、アメリカが有人宇宙飛行を目指していると直感し、「ジェット機では欧米に追いつけないが、ロケットなら今からでも勝機がある」と確信。糸川先生は、急いで日本に帰国し、産業界へ協力を呼びかけます。
三つの潮流の合流
第一の潮流:荻窪にて、エンジン開発と燃料の物語
帰国した糸川先生は日本の主要メーカーの技術者に参集を呼びかけロケット開発の重要性を説きました。ほとんどのメーカーが二の足を踏む中で、唯一関心を示したのが、糸川先生の古巣である中島飛行機を前身とする富士精密工業の取締役、中川良一氏でした。中川氏は部下の戸田康明氏と垣見恒男氏を糸川先生のもとに派遣し、協力を約束。
開発の鍵となる固体燃料については、戸田氏が火薬協会の紹介を受け、日本油脂の村田勉氏を訪ねてロケット開発への協力を要請。村田氏はその場で快諾します。朝鮮戦争のバズーカ砲に使用されていた「ダブルベース火薬」を提供し、これを改良したものがペンシルロケットの推進薬となったのです。こうして、荻窪にあった富士精密工業の工場を拠点に、産業界を巻き込んだエンジン開発が始まりました。
第二の潮流:「学術研究の推進、AVSA研究班」※AVSA:Avionics and Supersonic Aerodynamics
産業界との連携と並行して、糸川先生は学術的な基礎研究の重要性を認識していました。1954年2月5日、東京大学生産技術研究所内に、若手研究者を集めた「AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics)研究班」を発足させます。この研究班には、後に日本のロケット開発で中心的な役割を果たす(当時)大学院生だった秋葉鐐二郎氏なども参加しました。
AVSA研究班が掲げた旗印は、糸川先生が抱く壮大な夢「太平洋横断ロケット旅客機」構想でもありました。東京とニューヨークを2〜3時間で結ぶといういまだに実現していない未来的なビジョンは、敗戦で自信を失っていた日本の若者たちを奮い立たせ、多くの若い才能がAVSA研究班に集まり、力強い流れが出来ていったのです。
第三の潮流:「ペンシルロケットのシステム」と国際地球観測年(IGY)の計画
開発が具体化し始めた頃、予算不足に苦しむ上記の二つの流れに、全く別の文脈から第三の潮流が流れ込んできました。1954年3月、ローマで開かれた国際会議で、地球全体を世界中の科学者で調べていこうというプロジェクト「国際地球観測年(IGY:International Geophysical Year)」が計画されました。日本代表として参加した地球物理学者の永田武先生に対し、アメリカから「日本は観測機器を作ってほしい、アメリカがロケットを提供しよう」という、高層大気の観測計画が提案されました。
永田先生は「日本国内でもロケット開発の動きがあるかもしれない」と考え、返事を保留して帰国。この話を文部省で聞いた岡野澄課長が、糸川先生のロケット構想を思い出し両者を引き合わせました。奇しくも永田先生と糸川先生は旧知の仲であり協力体制がすぐに整ったのです。
糸川先生の本心は、壮大なロケット旅客機にありましたが、IGYへの参加は現実的な予算獲得の道を開くものでした。糸川先生は「悔しいけど、とりあえずはこれをやろう」という気持ちだったようです。ロケットの開発は、当面はIGYの目標である高度100kmに到達する観測ロケットの開発へと舵を切ることになり、この決断がペンシルロケット開発を加速させる大きな推進力となったのです。
後日談として、的川館長は永田先生と歓談することがあり「糸川さんはもっと大きなことをやりたかったのに、上層大気の観測みたいな矮小な取組をさせてしまったオレのことを恨んでるんだろうね」とこぼしていた、という話もありました。「天才は天才を知る」と思ったそうです。
ー開発体制と予算
当時のロケット開発予算は、通商産業省からメーカー(富士精密工業)に支給された460万円と大学の研究費100万円のわずか合計560万円。限られた予算と資源の中で、糸川先生はこの二つの予算を巧みにコントロールしながら研究と製造の現場を奔走し、開発全体を統括推進していきました。
ーペンシルロケットの仕様
ペンシルロケットの設計は、シンプルながらも将来の発展を見据えた工夫が凝らされていました。
- 名称:
- ペンシルロケット
・・・命名者は不明。糸川先生が記録したノートが銀座で盗難に遭ったため。 - 基本設計:
- 富士精密の石黒氏が方眼紙に描いたポンチ絵をもとに糸川先生が約10分で承認
- 寸法
- 直径1.8cm、全長23cm
・・・L/D比(長さ/直径)を空力的に最適な13とした結果 - 推進薬
- ダブルベース(ニトログリセリンとニトロセルロースの混合物)に安定剤と硬化剤を追加
・・・推力の安定性を確保するため、内側と外側から燃える「両面燃焼」方式を採用 - 点火装置
- 黒色火薬(点火薬)とエナメル線の導火線
- 設計思想
- 発射時の安定性確保が最重要課題とされた。重心位置、尾翼面積、推力、燃焼時間、ランチャー長などのパラメータを実験で最適化することが目的
糸川先生による細部に至るまでの指示の一つとして、戸田氏に送ったファックスには、「先端(ノーズコーン)の材質を変えて重心位置を調整すること」「尾翼に角度をつけてスピン安定を得ること」など、具体的な要求が詳細に記されています。
国分寺の物語。「ロケットは上に飛ばないといけないのか?」
ついに発射実験となりました。1955年4月に東京都国分寺市で実施されたこの独創的な実験は、当時の技術的制約を乗り越えるための画期的なアイデアから生まれました。
ーなぜ水平発射だったのか?
ロケットの設計がほぼ完了した頃、AVSA研究班の若手から「日本にはロケットを追尾するレーダー技術がないため、打ち上げてもどこを飛んだか正確にわからない」という致命的な指摘がなされました。これに窮し一晩考えた糸川先生は翌日、研究室に現れてこう言いました。
「ロケットっていうのは、上に飛ばさなきゃいけないのかな?ロケットの飛翔に影響するのは重力と空気抵抗だけだ。それなら、水平に打っても検証できるじゃないか」
この(弟子たちが嘆いた一見強引な)逆転の発想により水平発射実験を実施し、その飛翔データを精密に計測するという、世界でも類を見ない実験計画が立てられたのです。
ー実験の実施と成功
1955年4月12日(火)15:00、天候晴れ。いよいよ報道関係者らを招いて公開実験が行われました。糸川先生が「日本最初のコントロール・センター」と呼んだ場所には、各班の準備完了を知らせる裸電球がずらっと並び、全てが点灯すると発射準備が整う仕組みでした。
実験は、中央線の電車が通過するたびに秒読みが中断されるという、のんびりとした雰囲気の中で行われました。4月12日から23日にかけて、ノーズコーンの材質や尾翼の角度を変えた29機のペンシルロケットが発射され、その全てが成功を収めたのです。
ー計測結果:ペンシルロケットの基本性能
推進薬重量:13g(or 6.5g)
推力: 30kg
燃焼時間: 0.1秒
最大速度: 秒速110m~140m
この実験の成功は、日本のロケット工学に揺るぎない基礎を築くとともに、関係者に大きな自信を与えたのです。
ペンシルロケットが遺したもの
この実験は単なる技術試験以上のものを日本にもたらしました。それは、後の宇宙開発の礎となる技術、組織、そして夢そのものであったのです。
ー国分寺の記憶
ペンシルロケットが発射された場所は、太平洋戦争中はナンブ銃を製造していた新日本工業の銃器試験所であり、その後、新日本製鐵のグラウンドを経て、現在は早稲田実業学校の敷地となっています。実験の痕跡は地中に埋もれましたが、ジャーナリストの寺門和夫氏らの執念の調査と、早稲田大学の研究チームによる地中レーダー探査によって、テニスコート下にその位置が正確に特定されました。
早稲田実業の正門近くには日本の宇宙開発発祥の地を記念する碑が建てられています。その下には、漫画家の松本零士氏がデザインしたタイムカプセルが埋められ、子どもたちから集めた「未来のロケットの設計図」が収められています。このカプセルは、ペンシルロケットの水平発射実験から100周年にあたる2055年に掘り出し開封される予定とのことです。
ー技術的・組織的遺産
糸川先生はペンシルロケットのプロジェクトを次のように総括しています。
「小さいけれども、ロケットの基本的要素を全て持っており、飛行実験の全分野にわたってロケット工学の問題点を学ぶことができた」。また成功に満足するだけでなく「不安定現象が少なすぎた。もっと問題が起きた方が良かった」とも述べ、常に先の課題を見据えていたことがうかがえます。
この姿勢は、壮大な目標を掲げつつ、一つ一つのステップを緻密に進める「着眼大局・着手小局」という糸川先生の哲学を象徴しており、また国分寺に集った35人のチームは、後のカッパロケットやミューロケット開発を担う数百人規模のチームの原型となり、日本の宇宙開発におけるチームづくりの礎を築いたと言えるのです。
ー国際的評価と後世への影響、その後
ペンシルロケットの功績は国際的にも高く評価されていました。ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館にはペンシルロケットのレプリカが「世界最小のテストロケット」として展示され、日本の宇宙開発の輝かしい第一歩として紹介されています。
宇宙への旅:2003年宇宙飛行士の野口聡一氏によって宇宙空間へ運ばれ「ペンシルロケットが宇宙に来るまで50年近くかかった」というユーモアと共に紹介されました。
50周年記念再現実験:2005年、JAXAの若手技術者たちが幕張メッセで公開再現実験を実施。当時の技術やシステムを追体験することで、日本のロケット開発の原点を学び、技術伝承の貴重な機会となりました。
ペンシルロケット実験の成功を機に、糸川先生はすぐさま次のステップへと動き出しました。観測ロケットの開発を推進するための「ロケット研究連絡会(ロ研連)」を設立し、ベビー、カッパといった後継機の開発ロードマップを策定しました。
次回配信のご案内:第2回「日本の宇宙への飛翔」その1
「ペンシルからベビーそしてカッパ -千葉から道川へー」
2026年1月27日(火)19:00 オンラインライブ配信
次回はペンシルロケットの跡継ぎたち、千葉、秋田の物語につながっていく予定です。
ぜひご期待ください。

