むかし子どもだった大人たちへ。
いまのこどもたちに伝えてほしい、宇宙を"好き"になるものがたり

「はまぎん こども宇宙科学館」的川泰宣館長のオンライン宇宙教室がスタート!第3回「軌道への跳躍」その1「5回にわたる喜怒哀楽」

ゼロから未来につなぐ。「的川館長のオンライン宇宙教室」

日本の「宇宙教育の父」であり、JAXA名誉教授でもある「はまぎん こども宇宙科学館」の的川泰宣館長が、思い出話を交えながら日本の宇宙開発について語ります。
不定期にライブ配信するこの番組は、完全大人向けで、日本の宇宙開発の黎明期から現在までを、寄り道をしながらわかりやすく、臨場感たっぷりにお話しします。
宇宙の楽しさやおもしろさを感じながら日本の宇宙開発について学んでみませんか?

第3回「軌道への跳躍」その1「5回にわたる喜怒哀楽」(2026年3月25日配信)

第3回「軌道への跳躍」その1「5回にわたる喜怒哀楽」では、日本の宇宙開発の金字塔、日本初の人工衛星「おおすみ」の発射までのお話です。華やかな舞台裏で繰り返された試行錯誤や悲喜交々について、現場でともに活動した的川館長が臨場感たっぷりに解説します。

※この文章は、的川館長のお話しをもとに、一部の情報は生成AIによる補足を行っています。

ロケットをどこから打ち上げるか

ロケットの発射場は、緯度や船・飛行機の定期航路、漁業の操業実態、周辺の環境条件などにより決定されます。ロケットは、地球の自転を"追い風"として利用することで、必要な燃料を大幅に節約できます。地球は西から東へ回転しているため、東向きに打ち上げると、地球の回転速度がそのままロケットの初速に加わります。

  • 赤道付近が最も有利:自転速度は赤道で秒速約460m

  • 日本の発射場(内之浦・種子島):北緯30度付近で秒速約400mの自転速度を利用

  • 燃料節約=より重い衛星を載せられる

  • 船や飛行機の定期航路が混んでいないこと

  • 漁業の操業実態を邪魔し過ぎないこと

  • 騒音などで周辺の住民に迷惑を及ぼさないこと

つまり、発射場の"場所"はロケットの性能に直結する重要な要素なのです。

参考:世界の主要ロケット発射場:緯度と地球表面速度の比較
発射場(国):緯度・表面速度(m/s)

内之浦宇宙空間観測所(日本):31°15′・397 m/s
種子島宇宙センター(日本):30°20′・400 m/s
ギアナ宇宙センター(仏領ギアナ):5°14′・462 m/s
サティッシュ・ダワン宇宙センター(インド):13°09′・452 m/s
文昌衛星発射センター(中国):19°20′・438 m/s
ケネディ宇宙センター(アメリカ):28°31′・408 m/s
バイコヌール宇宙基地(カザフスタン):45°36′・325 m/s
ニューオルソン(ノルウェー):78°55′・89 m/s

日本独自の「無誘導」方式

日本のロケット開発は大学研究として始まったため、軍事転用を避ける必要がありました。 そこで採用されたのが、世界でも珍しい 「無誘導(グラビティ・ターン)」方式 です。

  • ロケット下段を高速回転させ、コマのように姿勢を安定させる(スピン安定)

  • ロケット下段は尾翼を使って姿勢安定を図る

  • 衛星を軌道に投入する最終段のみ機体の姿勢を地面に対して水平にする制御をする

糸川英夫先生の強い信念「制御しないからこそ武器にならない」。この思想が日本のロケットの独自性を形づくり、受け継がれていくことになります。
参考)無誘導打上げ方式とは
JAXA「日本の宇宙開発の歴史[宇宙研物語]第3章ラムダの苦悩と栄光」でも解説されています。詳細はこちら

「おおすみ」の理論的先駆け、「人工衛星計画試案」

1962年7月、「5年後にペイロード30kgの人工衛星を打ち上げるためのロケットは如何に?」という糸川英夫先生からの設問に対し、東京大学生産技術研究所の秋葉鐐二郎氏、長友信人氏、松尾弘毅氏が1962年10月「人工衛星計画試案」をまとめました。
この試案のロケットは直径が1.2m、第3段と第4段が球形ロケットで、内側ヴァン・アレン帯に届くロケット「ラムダ(L)計画」による衛星打ち上げの基礎を築きました。その後この試案は外側ヴァン・アレン帯に届くロケット「M(ミュー)計画」の叩き台となり、次第に周囲の反響を呼び、学術会議を中心とした討議の末、1965年Mロケットによる科学衛星計画が公表されました。

「喜怒哀楽」の連続、5回の挑戦を経て、ついに「おおすみ」誕生

日本初の人工衛星「おおすみ」が成功するまでには、何度も"あと一歩"で届かない試練が続きました。

  1. 第1号機(1966年9月26日):3段目切り離し、姿勢制御失敗

  2. 第2号機(1966年12月20日):配線がねじ切れ、最終段に点火できず

  3. 第3号機(1967年4月13日):3段目点火せず その後漁業問題が持ち上がり打上げ中断

  4. 試験機ラムダ4T(1969年9月3日):3段目が4段目に追突する異例の事故

  5. 第4号機(1969年9月3日):再び追突事故、軌道を外れた

  6. 第5号機(1970年2月11日):ついに成功、「おおすみ」誕生!

この度重なる挑戦の歴史こそが、日本の宇宙開発の基礎を鍛え上げました。

「失敗」の本質、糸川英夫先生は語った

糸川先生は、記者に「失敗しましたね」と問われた際、こう答えました。

「新しい技術に挑戦している間は、それを"失敗"と呼んではいけない。」

うまくいかなかった原因を見つけ、改善し、次に進む。その積み重ねこそが"挑戦"であり、研究の本質だという考え方です。この哲学「糸川イズム」は、現在の宇宙科学研究所にも受け継がれているといいます。

「おおすみ」という名前

「おおすみ」は、開発チームを率いていた東京大学の玉木章夫先生によって命名されました。生みの苦しみを支え励ましてくれた内之浦を中心とする人々への感謝と、親しみやすさが込められています。記者発表の際に、当時の内之浦の婦人会長が「先生、有難うございます」と叫んだことは、そこに居合わせた人々の鮮やかな記憶として残っています。

2003年「おおすみ」帰還、日本の宇宙開発の転換点

「おおすみ」は打ち上げから約2時間半後、静かに地球を一周して内之浦上空を通過したことが確認されました。その後も周回を続けましたが、地上に届く電波は少しずつ弱まり、遠ざかるように細く、かすかになっていきます。翌日の1970年2月12日、6周目では辛うじて微弱な信号を捉えましたが、7周目にはついに応答が途絶えました。 それは、宇宙へ旅立った小さな衛星が、地球との"最初の別れ"を迎えた瞬間でもありました。
しかし「おおすみ」は、その後も軌道上を回り続けます。33年という歳月を、地球の青い光を見下ろしながら静かに旅を続けました。そして2003年8月2日午前5時45分(日本時間)、北アフリカ上空----北緯30.3度・東経25.0度付近で大気圏に再突入し燃え尽きました。その最期は、まるで長い任務を終えた探査者が、地球へ帰ってきたかのような、静かで象徴的な幕引きでした。

「おおすみ」の成功は、単なる技術的成果ではありませんでした。それは、日本の宇宙開発に携わった多くの人々にとって、長い努力と挑戦が確かに実を結んだ証であり、未来へと続く希望の灯火でもありました。
当時の日本は、宇宙開発の経験も資金も乏しく、大学を中心とした小さな研究体制でロケット開発を進めていました。 そのような厳しい状況の中で「おおすみ」を軌道に乗せたという事実は、「日本は自分たちの力で宇宙へ到達できる」という強いメッセージとなり、技術的にも精神的にも計り知れない意味を持っていました。

また、「おおすみ」が静かに大気中で消滅した2003年という年は、奇しくも日本の宇宙開発にとって新たな幕が上がった年でもありました。この年、小惑星探査機「はやぶさ」が宇宙へ旅立ち、そして日本の宇宙機関が統合されて JAXA が誕生、これはまるで「おおすみ」が長い旅を終えて宇宙へ道を譲り、 次の世代の宇宙探査者たちにバトンを渡したかのようでした。 その存在は、日本の宇宙開発の"はじまりの証"として、確かな金字塔となったのです。

「おおすみ」の発射地となった内之浦宇宙空間観測所には、いまも静かに佇む記念碑があります。 そこには、日本のロケット開発を導いた糸川英夫先生の言葉が刻まれています。

「人生で最も大切なものは逆境と良き友である」

(揮毫:的川館長)

次回:第3回「軌道への跳躍」その2

次回の「的川館長のオンライン宇宙教室」は4月28日に開催。
第3回「軌道への跳躍」その2に、どうぞご期待ください。

コンテンツ紹介